認知症の方の周辺症状が進むにつれ、言葉の変化が見られる様になります。この変化を、文字通り受け取ろうとすると介護者側には混乱が訪れます。なぜなのでしょうか。
言葉には意味がある
当然ながら、私達が発する言葉には、それ自体に意味があります。コミュニケーションを言葉によって行う場合、相手の感じている事を言葉によって理解しよう、自分の感情を言葉によって分かってもらおうとする訳です。ですから、一つ一つの言葉を組み合わせてなんとか伝えようとするのですが、当然ながら色々な言葉が組み合わさった時、その文章全体は深い意味を持つ様になります。例えば「山」という言葉だけならどこかの山の事でしょうが、「7月になっても山頂に雪が残っている山」という文章になると、その情景を思い浮かべないと理解する事が出来ません。認知症の方は、この様な組み合わせた文書を理解するのが難しくなります。しかしその変わり、言葉が示す象徴的な意味は覚えている事も特徴です。
言葉の象徴
例えば、一般的に「先生」と言うと、学校の先生や医師が思い浮かびます。逆に言えば、白衣を着ている人を見ると「先生」という言葉が連想出来るわけです。ですから、認知症の方が白衣を着ている人を見ると「先生」と判断する訳です。当然ながらこれは、その人の事を言っているのではなく、白衣=主治医と判断し、象徴的な意味合いで先生と呼んだにすぎません。また、認定調査にくる女性調査員の事を、その顔や表情や性別から、自宅の近くにいた近所の奥さんだと判断し「奥さん」と呼ぶ事もあります。つまり、認知症の方の言葉には、その言葉自体に意味があるのではなく、その言葉が示す象徴的なものに意味がある、という事です。
名前を付ける基本的な能力
人間には、初めての物を見た時でも、その姿・形・温度・など色々な事から、自然と名付ける事が出来る能力があると言われています。認知症になっても、この能力は残っているのですが、名づける物と名付けられた物が一致しない場合があるのです。例えば小さな子供が「お腹が痛い」と訴えたとします。でも実は、お腹が痛いのではなくてお腹が空いていただけ…という事がありますよね。お腹に何か不快感があるのに、それが空腹によるものとは分からず、自分が今までに経験した事から一番近い印象をもってその状況を説明したわけです。同じ様に、認知症の方が「手が軽い」と言っても、もしかしたらそれは、痒みを感じていたのに軽減された時、つまり「痒い手が良くなった」という意味で、手が軽い、と言っているだけなのかもしれない、という事です。
この様な事例から分かる様に、認知症の方が話す言葉を、その言葉通りに捕えてしまうと大きな勘違いを引き起こす事になります。結果として、良かれと思って行った事が相手にとっては不快でしかない、その不快感を表す為に更なる行動に出てしまった結果、「問題行動」として受け取られてしまう…という事になってしまうのです。これらは往々にして、その方の生活習慣と大きな関係があります。ですから、認知症の方のケアには、その方がどうやって暮らしてきたのか、生活歴を知る事がどうしても必要になるのですね。